リーダーシップ、フレンドシップ、スポーツマンシップ

August 11, 2009

毎朝代々木公園を散歩して原宿のオフィスに行くのだが、きれいなバラ園などもある一見奇麗な代々木公園の中には、ホームレスもいるし、カラスやネズミや蛇も住んでいる。

そんな公園を歩きながら、リーダーシップについて考えた。日本はとかく肩書きでその人を見るし、それも社員1万人いる株式会社の社長、というどこの誰と言うことがとても大切でその肩書きの人がリーダーシップがあるように思われている。しかし大企業のサラリーマン社長はむしろ社長でありリーダーであるかもしれないが、リーダーシップはあまりなく、慎重で恐がりで、下手すると狡いやつがいる。

社長=必ずしもリーダーシップがある訳ではない事と考えたのは、ホームレスの親父の一人にいつも背広を着ていて、さも社長ぽくしている人がいるのだが、こうした社会の変化にリーダーシップを発揮できずに、苦労をして代々木公園に住んでいるかもしれないと思ったからだ。

彼は目が合うと反らせ僕もおはようというのが悪い様に思えてしまう。別にアーバンキャンパーとして楽しく暮らしていれば良いのに、昔は地位があったんだぞという格好はかわいそうだなと思う。そして色々考えるいるとリーダーシップはどこにあるかと考え始める。

リーダーシップとは。回りの人がどうして良いか解らないときに卓越した情報力とそれに元ずく判断力、それだけでなく、ほれぼれするスピーチと説得力、それら全てを持ち合わせた人はどうして最近は少なくなったのだろうか。すぐ自分の保身から部下の失敗にしたり狡いやつばかりが政治家や企業の社長になっている。

また、友人もただ同じ学校だったり、毎日あったりする友人と友情を持って、先生に叱られたときも、危ないときも変わらないフレンドシップはどこに行ったのか。

またスポーツをしている人はたくさんいるのに、なぜかその試合ぶりにスポーツマンシップを発揮するような人は少ない。ただフェアプレイなだけでなく、そのうえの、スポーツが人格や人生に影響し、思考が健全である尊敬に値する人。

人生を通して、この○○シップ/○○性/○○精神/○○としての気概こそが形成されなければいけないのではないか。

あまりにもただの社長や、ただの知り合いの友人や、ただスポーツしている人が多くなって、余白も余韻もなくカサカサした結果主義になってしまっているのではないかと思う。これはどうしてなのかと歩きながら更に考え続けた。

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