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   <title>KUROTERU BLOG | 黒崎輝男 ブログ</title>
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   <title>グリーンなライフスタイルと創造的生活との関係 #1</title>
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   <published>2010-02-03T10:05:34Z</published>
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      <![CDATA[先日NHKで見た日本のモノ作りの今後についての番組を思い出している。以前は世界の液晶テレビの大半を生産していた日本が中国や韓国のテレビに抜かれてしまった。そこで日本の科学者が集まり、最高の性能のテレビを作り、それを1台100万でも売っていこうという話を、モノ作りの原点を美化する訳ではなく、果たしてこれが生きる道かどうかという視点も入れて構成された番組だった。

最近NHKのこの手の番組は国営放送としての責任感が溢れ、実は僕は陰ながら応援している。僕も大人になってから骨董品収集に始まり、デザインやライフスタイルを軸に色々と考え、また各地への旅行を通して見聞きしてきたつもりなので、簡単には反応しないでおこうと思いながらも、これがこの2週間ほど頭から離れなかった。

まずモノ作りというのがモノを生産するということと短絡的に結びつけられなくなってきている現実がある。労働者といっても工場労働者の制服を着た姿とは結びつけられないのと同じだ。80年代日本がこうした電化製品や自動車を工場で大量生産して世界の工場かのように向ってきた時の栄光はそれはそれで凄いものがあった。

その頃アメリカではコンピューターやソフトの方向に向かい情報と金融で世界の中心に立とうと言う戦略に出た。それが90年代以降は成功した様だが、ここにきての破綻。一方ヨーロッパの国々は文化性と歴史を武器にブランドやデザインそれに総合的な力を大人の社会の底力を見せてしぶとくやってきた。

そこで日本はデザインや文化戦略の基本がなく、美しい日本を目指そうとした政権も短命に終ったし、一昔前の、生活が第一などと経済性と生産性の延長に夢の生活があるかのようなことをまだ言ってる。僕はこの俗っぽさがどうも苦手で、そんなら社会の端っこで静かに自分の好きなものに囲まれていきるからいいと思ってきた。

しかしその前に見たテレビでの明治維新の若者の生き生きした活躍や日本が開国するころの情況を見るにつけ岩崎弥太郎でさえも塾をやっていた、教えることと学習意欲は同じような活力なんだということに気がつき刺激を受けていた。

そこでこれから何回かに分けてこのブログでモノ作りとは生産性や効率だけでなくクリエイティビティーに根ざしたもうすこし大きな人間の能力に係るものであることを説明して行こうと思う。これから僕の料理の食べてもらう前ということで、まずはこの写真を。

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   <title>多様な文化状況の創造</title>
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   <published>2010-01-28T10:36:14Z</published>
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      <![CDATA[先日サードプレイスコレクション（第三の場）と題したイベントで、新しい働き方を探そうとしている大学院生や社会人などの若者たちと話す機会があった。

数年前にマーク・ダイサムたちが自分たちの事務所をデラックスと名付けた。そこではクリエイターが20秒づつ20シーン発表するペチャクチャナイトというイベントが行われていたが、これは世界中に広がりちょっとしたブームになった。そして様々な人達が自分の意見や作品や今やっていることをプレゼンテーションを通して発表し新しい風を吹き込んだ。

その後スーパーデラックスっていう場が出来た。これは真面目でやる気があり、明るく元気でやってきたような今の賢い若者達が、ここにきて今の社会の状況はちょっと違うなと考えてき始めた時期と重なると思う。

こういう人達は昔だったら革命だとばかりに騒ぐところだったけど、そんなことしても何も変わらないとばかりに、もっと大人に現在の状況を捉えている様だ。

家と学校、家と会社以外にどこか行く場所、居心地のいい場所を作ろうということをコンセプトにスターバックスなんかが10年前から流行り始めたが、こういう居心地のいいカフェに集まって話すということは昔からあった。パリなどではカフェクーポールやドームやいろんなカフェに哲学者や芸術家、時代を引っ張る若者達が夜な夜な集まったものだ。

これは平和な時代が続き、世の中が普通に流れて行き、20年くらい経つとどんなに良いものでも古くなり、疲労がでてくるもので、一度壊して建て直さなければ行けないという気持ちになる事と関係がある思う。

毎日、昼があって夜があり、そして必ずまた朝が来るものだから。朝起きると、枕元には犬のシュガーがいる。そして和代ちゃんから頂いた人形は僕の心を束縛からすこし離してくれる。その後、今日の野草などといいながら植物図鑑を毎日めくり、代々木公園を歩いて原宿の事務所に来る。

先日、僕が話したのはサードプレイスなんて言ってることが古くさくって、第三の場所なんて言って、結局スタバじゃあ寂しい。カフェで話そうなんてのも悪くはないけど嘘っぽい。もっと多様な状況がそこら中にあるんじゃないかと言うこと。

だいたいこんな場所で真面目な顔して成功者に話を聞こうなんて言うのがずるい。とパンクな態度で話をふった。僕は失敗ばっかしてるし、だいたい失敗したやつの話の方が役に立つんだし、自分もそこを変えればいいんだって判る。大失敗してみたり、ヒエーという気分を味わってこそ勉強になる。

まっすぐ行ったり来たりするんではなく、刺激に満ちた状況を周りに作り、20年に一度は壊してみようと言うこと。式年遷宮のようにはなかなか様式としては完成できないけど、きちんと時間をおいて変わり続けることこそが普遍的ということだと思う。波の押し寄せる海の表面を見ていて永遠を感じ取るというものだと思う。

そして最近こうした変化に対する期待感が強くなってきた気運を感じる。今年はこういう僕らの方向をブロッグしてみようと思う。問題を見つけ出すことこそが面白いんだということ。そう思えるにはあれもあり、これもありという多様な状況をいつも周りに作っておくことが大切だと思う。

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   <title>検索エンジンと知の上昇</title>
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   <published>2010-01-18T10:15:32Z</published>
   <updated>2010-01-18T10:16:02Z</updated>
   
   <summary>最近よく考えるのだけど、ヤフーやグーグルやウイキペディアを使えばもっと人類は賢く...</summary>
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      最近よく考えるのだけど、ヤフーやグーグルやウイキペディアを使えばもっと人類は賢くなって、どんどん世界の問題を解決して行ってるはずなのに、なぜか今でも人類が相変わらず愚かなことや、汚いものを生み続けているように思える。

人類も本来は他の生物の種と同じで、ひたすら種の保存の本能に従い、生きるために何でもするのだから仕方ないとは思うが、それでも真実に生きようとか、良くしたいとか、美しさを追求したいと考えるのが当然だと思うと、現在の世界で起きていることは不本意だし心配になってしまう。

そこでコンピューター文化は本当に人類に役立ってるのだろうかと思う。ふと疑問が起きて検索してみて、簡単に結果ができ百科事典や辞書も自由に使えてあっという間に調べることができるのになぜか知性が上昇しない。

知識は増大するけど見識や良識は育たない。これはやはり知性は実社会の行動や人と会って話したり試行錯誤をすることなくしては、なかなか育たないものなのだからなのかと思う。

それに検索エンジンとは、色々な道をたどってどこでも行くことができるということは判るが、実際にリアルな行動ではない、するとやはり人間は生身の動物であるから思考が深まらないのだろうか。

ネットで何でも興味の赴くままに検索するが、その為には実際の経験や、人との会話から知を引っ張ることに長けてなければいけないし、そのようなコミュニティーがないと思考が身体化しない。

それは本ばかり読んでいても何も始らないのと似ているが、ネットの知識は本よりも文字の存在が保存されない分、危うさが漂う。それは人間の頭の中に浮いては消えて行く思考の様でもある。

だから若い友人がtwitterって古文みたいに思えるって言うのを聞いて、最近、僕はブログで考えを作文の形にするのさえも少し面倒になり、徒然成るままにつぶやきを書き連ねている。

それは若い子が「何を今、してる」と言うことをつぶやいてるのとは違った使い方だけど僕の自分の中の心情と思考を自分自身知ることのヒントになる。軽い柔軟体操の意味を持つ。

今年は新年からこれらの自分のメディアとしてyoutubeの制作も加えようと思う。するとたまに呼ばれてする講演やスピーチも楽しめるし、twitterblogや人と会っておしゃべりや僕の一見メチャクチャな様々な活動も自分の中ではかえって整理されてくるように思える。

生物多様性（biodiversity）が今年は注目されてるけれが、表現の多様性と自在さ、自由は僕らをとても上昇させてくれる。そこで実際の行動と生活を学び実践することがひと際重要になってくる。

これからこうした循環が育ってくるといいなと思う。フィールドワークや実験や議論がうまくかみ合えば本来の検索エンジンの効果が出てくると思う。
      
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   <title>なぜ農業が大切になってきたのだろう？</title>
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   <published>2010-01-14T14:22:29Z</published>
   <updated>2010-01-14T14:35:04Z</updated>
   
   <summary>昨年の9月から青山の国連大学前でのファーマーズマーケットを陰ながらお手伝いしてい...</summary>
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      昨年の9月から青山の国連大学前でのファーマーズマーケットを陰ながらお手伝いしている。

世界中で普通に行われている週末のファーマーズマーケットがなぜか東京ではないように思え、数年前から機会があるたびに話してきた。池尻の学校でもずっとその話をしていた。そしてこのマーケットを始めるにあたり、僕は全体の流れや空気や雰囲気について、その底流に流れる世界の現状に対する認識などについて話し、関わることになった。

すると場所がよかったせいか、時代が求めているせいか、不思議な盛り上がりが生まれた。まず僕にとっては実行してる人のタイプをうまくキャスティングする事や、テントや什器や木のテーブルのデザインやオリーブの木の選定、グラフィックや小冊子の内容や音楽やアートディレクションをどうするか、そしてどう流れを作るかかがとても大切だったので、これをうるさく言った。そして今回メインに立ってやって下さった川畑さん達の会社の方々が上手く仕切ってやってくれた。

こうしたことの後ろには現在の世界の現状に対する認識がある。地球が無限に大きくはないことに気がつき、食料とか水とか自然に関して、自分の所属する社会さえ考えれば良いという訳にはいかなくなったことがある。

企業社会は成長イコール拡大を続けてきた。人口の爆発により100億の人が地球に住むような未来を前に、数字の上での増大こそが進歩とは信じられなくなり、ほころびてきたのだと思う。

そして農業や農的生き方が注目された。僕は「cultureはcultivateすることから」と考えてきた事もあり、食物を育てて食すことが文化そのものだと実感している。そういう訳で今年は新年から晴耕雨読している訳だ。
      
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   <title>タダの自由</title>
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   <published>2009-11-24T11:15:48Z</published>
   <updated>2009-11-24T11:18:32Z</updated>
   
   <summary>最近、ウェブ社会の未来はどうなるのだろうかということを考えている。 果たしてこの...</summary>
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      最近、ウェブ社会の未来はどうなるのだろうかということを考えている。

果たしてこの巨大なウェブ（蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報のネット）は人々を守りそして自由にしたのだろうか？あるいは人類を賢明にも良い方向に導いたのだろうか？と疑問に思うように成った。
      自動車はヘンリー・フォードが発明して以来、自由な移動手段として人類文明に大きく貢献した様だが、今になって無限に発展することは地球にとってよくない、無限に沢山のエンジンをつけた自動車が走り回っても本当の人類の自由は得られないのではないかという考えがある。

むしろ人間の未来に取っては害になるかもしれないという集合知の流れがでてきた。ここでもっと踏み込んで、そもそも自由ってどういうことなんだろうと考えてみる。自動車がなくても移動する自由は確保されるのではないか、いや自動車は絶対必要だぞなどと考えるようになるのが自然の理という気がする。

自分が思うように行動し、どんなことも好きに出来るのだろうか？好きに考えて行動することがで自由ということなのだろうか？

Freeとは自由という一方で、無料という意味がある。freedomとは奴隷のような束縛から解放されることを元々いう。所有する為の労働から解放されて自由に所有することをタダ、すなわちフリーというのだろう。

すると現在のグーグルやヤフーでやっていることは自由にタダで情報を得ることをベースに全てのビジネスができている。Wikipediaなどや電子図書キンドルなども大きくはこの流れで、誰でもその気になれば自由にタダあるいは無料に近くフェアな価格で知が等価交換されるということに立脚している。

現在の40代ぐらいの人達に取ってはお金を儲けるのは自由を得るため、お金があれば自由が得られると一本道のように考えられてきた。また一時はコンピューター社会は無限の自由と繁栄をもたらすと信じられていた。しかし現在、どのように若者が考えているかというと、如何にタダで自由を獲得するかということではないか。

もし現在本を買うお金がなくても、問題を考えることができれば、いくらでも検索やネットからの情報で調べることができるし、問題設定も先ずお金からスタートする考え方から解放されると（フリーになれば）全然違った面白い答えを生きることができる。

何処で儲けてるか判らない、どうやって収支の辻褄を会わせているのだろうかといったことがウェブのビジネスには多い。ここは無邪気な子どものような問題意識からそのまま仕事をやりきってしまい、どうにか成り立たせることが多い。

自由はタダでも充分得られる時代に成ってきた。これからは僕等の時代だぞと思えるのは今までの社会ではダメな人達ではないか。僕にもその資格は充分ある。僕は充分にダメだからね
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   <title>悲しき熱帯</title>
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   <published>2009-11-12T06:49:21Z</published>
   <updated>2009-11-12T06:49:46Z</updated>
   
   <summary>10月30日にレヴィ＝ストロースが100歳で亡くなったそうだ。僕等の世代ではサル...</summary>
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      10月30日にレヴィ＝ストロースが100歳で亡くなったそうだ。僕等の世代ではサルトルやフランスの哲学者と共にとても影響力のあった構造主義の中心人物が1世紀生きて天国に往った。

特に彼のことで記憶に残ったのに、彼の若い時にブラジルのアマゾンに社会学の調査に行き、ムルンギン族という種族の婚姻形態を研究して、それをまとめた論文の名前が、悲しき熱帯っていう題だった事がある。
      まるで詩集やアルバムのタイトルのような名前。アマゾンの種族の婚姻形態と種族を調べに行くだけで凄いのにそれをこんなにお洒落な題を付けたのに先ず惹かれた。アマゾンに行くのは当時は本当に冒険旅行だったと思うし、僕の憧れていた勇気の在る冒険家、知識人ー思索家を見たように思い、とても興味を持った。

その当時、僕等の理科系少年達にとって良く分からないけど格好良い、ブルバキという数学者集団がいて、その郡論とこの文化人類学の種族の概念を構造主義で結びつけ、更にサルトルの実存主義をより大きなカテゴリーの観点から論争でやっつけたりしていて、本当にレヴィ＝ストロースは格好よいなと思った。

文科系の人が数学の郡論を種族やそれらのカテゴリーの構造そのものに考えを持ってきたりするところがダイナミックな思考の自由さを感じた。

とかく人間は自分の所属している社会や種族を他より優秀だと思うものだし、そうしたところから愛国主義や郷土を愛する心があるのだと思うが、アマゾンに行ってそこでの結婚のシステムがキリスト教の結婚観と違うのはもちろん社会学、民俗学、文化人類学をまたぎ数学の郡論とつなげるというところに興奮した訳だ。

それは当時のヒッピー的な、ベルトも締めずにヒップでジーンズをはくいい加減な人種達に勇気を与え、思考の自由さと本質を掘り下げる面白さを教えてくれた。それらの中からコンピューターやアートの天才が生まれた時代だった。僕の中ではこの文化の多様性の概念の前に在るカテゴリーや分け方の基準そのものを考えるということがいたく気に入った訳だ。

それを悲しき熱帯などという洒落た題にして冒険旅行の結果を論文にまとめた人がいるというだけで嬉しかった。この偉大な人間が丁度100年生きて天国に行ったという訳だ。

現在、今までのカテゴリー分けでは分けられない事象が色々と起きている。人間が本当に賢い動物かと疑うようなことがそこら中に起きている。人類という種、日本人という民族さえも本質的に考えた方が良いような時期が来た。日本人は何なのか。日本文化とは。世界の文明の行方。人類の未来など今迄あまり考えなくても良かったことを考えるときが来た。

身近な生活とお金だけではない、少し大きな視点や、より本質に近いことを考えて勇敢に立ち向かいたいと思う。まず体を鍛え直さなくちゃと思いトレーニングの計画を立てた。明日から晴耕雨読的な日本人の思想でこのレヴィ＝ストロースおじさんを乗り越えなくちゃね、という訳だ。
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   <title>デザインの行方</title>
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   <published>2009-11-03T08:49:13Z</published>
   <updated>2009-11-04T04:16:19Z</updated>
   
   <summary>デザインのイベントが様々な所で行われている。 僕たちはSwedish Love ...</summary>
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      <![CDATA[デザインのイベントが様々な所で行われている。

僕たちはSwedish Love Storiesというテーマで行われる、<a href="http://www.swedish-style.org/jp/">Swedish Style10周年の展示会</a>の会場構成や様々な事を手伝っている。]]>
      そして僕が集めてきたヴィンテージ家具やスウェーデン人の建築家のデザインの椅子のプロトタイプなんかとErik Hoglundというガラス作家のガラスのコレクションをオリジナル原画とともに飾っている。

他の家具屋や小物雑貨の会社と違って、僕なりのスウェーデンデザインへの愛情を表現している。モノも集めて組み合わせると、その組み合わせと一つ一つのセレクションから趣味が見えてくる。僕もよく見ると自分らしい組み合わせだと思える。

不思議なもので長い間デザインを考えてくると、ちょっとモノを見るとその裏のデザイナーの意図や製造企業の思惑や、そしてそれをどのように表現して行くのかの作戦に目がいく。デザインの存在意義が思い浮かぶ。

デザインが商品の売れ行きにとって大切なものになってきて久しく、現在アジアの中国や韓国やインドではデザイン教育、デザイン大学が沢山できて、デザインの優劣が其の企業の顔になってきた。

デザインを包む環境が其の国の文化度を表しているようだ。そこで大切なことは、表面的な形態よりもその中に隠れているストーリーをどう読み解くか、何処に本質があるかを見抜けるかである。

しかし多くの企業はマーケティングの視点で売れ行きのみを気にしているのが現状であり、日本の企業は弱っているのがデザインから読み取れる。この現状をどのように解釈すれば良いのか。

今後デザインというものがどう文化として、意匠性としての意味から、ものの存在そのものの意味に係って行き、文学や音楽のように人々の感性に訴えかけるものになって行くかが21世紀になってのデザインの行く末を占うことで大切になっているように思う。

僕も10年前に東京のデザインシーンを作るべくTokyo Designers Blockを始めたが、その後現在まで、デザインウイークやデザインタイドなど様々なイベントが行われてきた。

ここに来て急にその様相が変わりつつある。地球環境が変わり世界の経済環境が変わり価値観が変わり文明の行く末が考えられている。ここでこのまま2009年を終わらせたくない。何か自分たちなりにこれはというものを掴みたいと。

丁度青山の国連大学で9月からFarmer&apos;s Marketを始めた。また今回から本を売っているヒトも集めて、オリジナルのbookman&apos;s marketというのも始めた。

するとこのごろの熱気はデザインに取って代わるようだ。晴耕雨読というけど、雨が降れば読書をして天気がよければ農園で耕作するという単純な生活を基本において、文化ができてきたという日本の原点のようなものが現代ではどのようにやれるのだろうか？

本に対する若者の注目と農業に対する興味は沸々とわき上がり始めているようだ。
これからのデザインはどのようにするかだけど、僕にとっての注目は若い農業をやっている人がデザイナーと同じような顔をしていることだ。

ファッションもデザイナーがほとんどいけてる農民と同じように日焼けして健康そうに目を輝かせている。どのような美意識、デザイン感覚を持ってこれからの農的生活を作って行くか。

ここがこれからのデザインの行く末に重なって見えてくる。趣味の良い生活は晴耕雨読が基本にあってこそある、と思えてくる。そうすると、どんな家具でどんなライフスタイルでどんな生活を送るかのイマジネーションが湧いてくる。
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   <title>豊かなはずがそうでない今、の考察</title>
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   <published>2009-10-20T15:38:36Z</published>
   <updated>2009-10-20T15:40:00Z</updated>
   
   <summary>最近のスクーリングパッドのクルーを見ていると、今迄は就職で人気企業であった大企業...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kuroteru.com/">
      <![CDATA[最近の<a href="http://www.schooling-pad.jp">スクーリングパッド</a>のクルーを見ていると、今迄は就職で人気企業であった大企業に働きながらなぜか悩み、今後は自分で何か始めたいという人が多いようだ。]]>
      大手のメーカーや保険会社や銀行などの一昔前の人気企業が急にこのところ景気が悪くなって、このまま成長することに期待ができない直感を持っている。

考えてみれば人類の文明の急激な拡大で、自動車はどんどん買い替え、家は大きくなって豪華なことが豊かであり、食べ物は益々海外の食材を大量に使い、消費文明を謳歌すべく全ての会社は拡大し続けることを宿命としてきた。

しかし文化的に、賢明に人類がなってきた訳ではなく、愚かで、軽薄なことすらも消費する為には推奨されてさえいるようだ。

それに輪をかけ、マスコミや情報産業はどうにか引っ張って、消費拡大に持って行くことに躍起であるようだ。そもそも、そういった姿勢が問われているのではないのだろうか。

銀行からのお金で土地を買ってしまった以上、ここに家かマンションを建てなければやって行けない不動産会社や建設会社、働く人の生活を支えるにはもっと売り上げを増やさなければいけないかのような脅迫観念に苛まれ、社長も社員も追い込まれ、社会の誰のせいにもできず、ストレスと欲求不満が溜る。

そこには真面目に勤勉にやって行きさえすればそれで上手くいくという漠然とした信念を教え込まれそして信じてきた。そこで不真面目になることもできず、悪いふりぐらいはするがまるで弱虫、どうして良いかと病んでいる。

しかしこうなる前の貧しい時代は、兎に角モノが溢れることが豊かなことでモノが沢山在る状態が幸せで安全だった。一体、豊かな生活は、何処にあり幸せな心情とはどんなものなのだろうか。

デザインしてモノを作ることを職業としている人は、いきなり上司から10万個売れるものを兎に角作れと言われる。こうなると豊かさを追求するというより追い込まれてしまっている。

貧しい心情で日々生活している。自由に美しく、いいものを作ろうなどとはかけ離れて、大量販売をしないとやって行けないので少しでも安いものに走り、全ての知恵がそこに向けられる。

こうした八方ふさがりな状態を若者は感じ取って、しがみつくよりも自由に生きようと思う人がいる。僕はここのところを助けたい。しかしスクーリングパッドで自由の空気をいっぱい吹き込み、そして勝手に行けとばかりに放すと、今度は急にしぼんでしまう。

丁寧に少しずつ負荷を与えて行かないと中々自由には飛び立てない。僕がいつも言うのは、死にそうになる大病や、大失恋や、倒産したり、経済的に破綻したり、もうあり得ない状態は現在平和な社会であるが故に滅多に経験できない。食べ物がなくて飢え死にしそうな人がいる訳でもないのに、とても貧しい。

こういうときは自分なりに目的を持つ才能があると大いに助かるものそれを探そうと言っている。まわりのヒトに良くするよりも自分だけは良く成りたいと思うし、弱肉強食で強くなくては生き残れないかのようだ。

だけど、こういうときこそもっと大きい意味でみんなが良くなる道を考えるのがいい。それを自分の身近な所に落とし込んでやってみる。これにも勇気がいる。こんなことをやってみたいと思う。それには又始めから考えてみないと。
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   <title>SWEDISH LOVE STORIES</title>
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   <published>2009-10-15T18:01:41Z</published>
   <updated>2009-10-15T18:13:35Z</updated>
   
   <summary>1999年より開催してきたSwedish Style in Tokyoが今年で1...</summary>
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      <name>OFFICE</name>
      
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      <![CDATA[1999年より開催してきたSwedish Style in Tokyoが今年で10回目を迎えました。今年のタイトルは“ swedish love stories ”。サステナブルなアーバンライフスタイルに焦点を当てました。

家具などのデザインだけでなく、それを取り巻くスウェーデンのライフスタイルそのものを体感できるイベントです。デザインのクリエーションの基本である「愛」をテーマに、全ての物事の裏にある“ Love Story ”を様々な視点から切り取り、来場者の皆様に体感して頂きます。

会期：10月29日(木)-11月3日(火) 11:00-21:00
オープニングパーティー：10月29日(木) 19:00-21:00
場所：<a href="http://www.omotesandohills.com/event-space/index.html">表参道ヒルズ　スペースオー</a>

ウェブサイト：<a href="http://www.swedish-style.org/2009/09/swedish-love-stories-–%C2%A0swedish-interior-design-at-omotesando-hills-oct-29-–%C2%A0nov-3/">swedish style</a>
]]>
      <![CDATA[<strong>Exhibitors at Space O</strong>
Askul
Bantie- textiles
Blå Station - furniture
Capti Design- furniture
CKR
Evert- wooden clogs
Indumedia AB I Lund
Kosta Boda / Orrefors - crystal glass
Lena Nilsson Wärff - carpets
Mairo
Mateus - ceramics
Plastisock
Tuss
Scandinavian Wave
Stefan Borselius
Stockholm Design Lab
Swedes - furniture
Torbjörn Johansson
Vincent Shoe Store

<strong>VINTAGE</strong> 
Erik Höglund
Bruno Mathsson
Lisa Larsson by Gustavsberg

<strong>Project Manager</strong>
Caroline Heiroth 
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   <title>条件反射の教育</title>
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   <published>2009-10-15T07:37:44Z</published>
   <updated>2009-10-15T07:40:26Z</updated>
   
   <summary>昔、パブロフの犬というのがはやったけど、例えば青い色を見せてから水を飲ませること...</summary>
   <author>
      <name>TERUO KUROSAKI</name>
      
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      昔、パブロフの犬というのがはやったけど、例えば青い色を見せてから水を飲ませることを習慣としておき、青い色を見せると犬は水が飲める準備をする。

また、赤を見せてお手をさせ、えさを与えることを続けると、赤い色を見るだけでよだれが出るようになったり、お手をしたりするようになる。

これが教育だとしたら、戦後の教育は毎日どんなことがあっても朝早くおきて、決められたことを覚えて、実践する。なにがあっても会社に行き、一生懸命に働くか、働く振りをする。

そして如何に営業成績を上げるか、利益を上げるということに全力を挙げるように教育されてる。結果、餌ではなくて、お金をもらえる。そこでお金が見えないとよだれも出なくなり、お手もしなくなるように教育されている。
      <![CDATA[最近サラリーマン生活を長く続けた人達に、新しい仕事は何処にあるのかという話しをすると、お金が見えないとまるで意欲も湧かず、何をしていいか解らなくなっているようだ。

条件反射の呪縛を解き放し、お金を儲けることしか考えられなくなった人をどう解放するかは大きな問題。飼いならされ動物を、急に野生に放してもどうしていいか判らないで自分からえさを探すことができなくなっている。

餌をもらうことしか考えられなくなっている。これは若者にも言えて、どうしていいか判らないようだ。でも食べ物もお金もないと生きて行けないという不安はまさるばかり。

そこで僕はじっと彼らを観察すると、捨てたものではなく新しい芽が出てもいる。まず、健全な食欲と希望を何処に求めて行くか？いままで飼いならされてきたことからどのように解放されるか。解放されたらどのように自分で生きて行くことができるか。何を拠り所に生きて行くか、がまるで考えられない。考える手がかりを教わっていない。

そうした人に急に、美やデザインを言っても話にならないようだけど、やっぱり僕は何が美しいかを見る目がヒューマンな視点ではないだろうかと思う。

生活の不安があると、きれいな空も、良いデザインも目に入らずにひたすら経済と生活に庶民は目がいくようだ。これはさもありなん、当たり前なことなのかもしれない。

そこで政府や国の援助をもらおうと一生懸命なんだ。でも考えると寂しく切ない。僕個人ではいつも時代が変わり、変化するとワクワクしてそれに立ち向かい生きてきた。サーフィンやスポーツと同じように、ワクワクしながら時代を捉え分析して自分の行動をできるだけきれいにやって行こうと思ってきた。

個人の収入もこの20年間変化は少しあるけど300人ぐらいの社員がいたころの収入と今があまり違いない。当時から自分で儲けたらみんなに良くしてあげたいと思った、社員に奢ってやる気持ちで、海外に連れてったりしてきた。でも今も同じような気分でやっている。

今必要なのはよくしてあげる気持ちがあれば、この間違った条件反射としての知を、少し広げて、自由に考えるように持って行く術を提示してあげたいということを思った。

それには<a href="http://www.schooling-pad.jp">スクーリングパッド</a>は少人数で、<a href="http://www.freedom-univ.com">自由大学</a>はより広範に自由に自発的な学びの状況を作る、ということではないか。

この方針で今年からやって行こうと思う。また年末に向って色々なことをやって行こうと思う。いい波が来そうだ。]]>
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   <title>Swedish Style 2009</title>
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   <id>tag:www.kuroteru.com,2009://2.187</id>
   
   <published>2009-10-05T04:31:21Z</published>
   <updated>2009-10-15T10:36:46Z</updated>
   
   <summary>スウェーデンに今度行ったのは、この10年間以上僕が生活の中心にしてきたデザインと...</summary>
   <author>
      <name>TERUO KUROSAKI</name>
      
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         <category term="001)THINK" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kuroteru.com/">
      <![CDATA[スウェーデンに今度行ったのは、この10年間以上僕が生活の中心にしてきたデザインというものの社会でのその広がりということを、自分なりに納得したかったからだ。

10年前Tokyo Designers Block というのを僕が言い出してイデーの若いスタッフやボランチィアの人達と始めた。丁度その年にエバさんが<a href="http://www.swedish-style.org/">Swedish Style</a>というのを始めた。

都市を包むデザインの状況を創造するなんて言って僕は家具を中心にいろいろな方向からデザインを考え、イベントや展示やシンポジウムやパーティーをした。その後11月にはDesign Weekが定着し、東京の秋はデザインで盛り上がる様になった。]]>
      それまでデザイナーというのは地味な職人のような図面書きだったが、実は時代を創造する社会の中心に持ってくることを、フィリップ・スタークやマーク・ニューソンやマイケル・ヤングなどのキャラクターがスター性があることもあり、それまでのファションの熱をデザインが取り込んだし建築や空間デザインも絡んできた。

そして2003-2004年頃は東京が世界のデザインの中心になったことがあった。ミラノよりもアジアの面白さと東京のユースカルチャーを含み、めちゃくちゃなパーティーも仕込んだ。

世界中から東京が面白い、ということでデザイナーが押し寄せた。その頃同時にスウェーデンも北欧のデザインとユースカルチャーを、当時スウェーデン大使夫人だったエバさんが中心になってSwedish Styleの熱を盛り上げてきた。

デザイン雑誌の力もあって、社会が大いに盛り上がり、その後デザインバブルという現象が起きた。そこで去年からの世界の方向の変化。

丁度スウェーデンに行ってるときもヘラルドトリビューンの文化欄でアリス・ローソン（ロンドンデザインミュージアムの元館長でマークニューソンの本も書いた人）がデザイナーは今後は、プロダクトや空間やその他のモノよりももっと大切なものをデザインしなければいけない。と書いている、とストッックホルムでもデザイナーの間で話題になった。

もっと大切なものって何だろう。それはものの後ろに在るストーリーじゃないか。ということでSwedish Style の2009年のテーマはSwedish Love Storiesということになった。あまりにも広告的でブランド的に成ってしまったデザインをクラフトや民芸も含めてその後ろに在る真実のストーリーと共に見せていこうということだ。

それとボクはホグランのガラスやスウェーデンの陶器や家具なども集めて、僕なりのスウェーデンに対する愛の形を考えた。10月29日（木）に表参道ヒルズのスペース オーとGYREのSMOKEでオープニングを行う。

CKRやSwedeseやFRONTなんかも来て僕も色々なお気に入りのものを見せる。スウェーデンの今のデザインの勢いと今までやって築き上げてきたスウェーデンの形をいろいろ見せて行く。

そして10月31日（土）は国連大学前でのファーマーズマーケットでケーキパティーやその他のスウェーデンの食べ物をいろいろ出そうという話になっている。

僕は最近はダーラナ地方の200年以上前の古い小屋に凝っている。最低限のスペースで贅沢、茶室の生活を感じさせる、今度一軒輸入してみようかなと思ってる。表面的でなく、北欧の静かで清らかなそしてモダンなデザインはクラフトも含んで感動させるだろう。

エバさん達とのこの東京でのデザインの潮流を作ってきたことはとても僕らの人生に役立っている。この10年の存在感はとても大きかったのでこれからの動きはストーリーを大切に、古いものも混ぜながら新しいデザインを紹介して行きながら流れを作って行きたい。

ボランティアや若いスタッフもきっと良い経験になると思う。自分から求めてチャレンジすると、終わったとき、ふと我に帰り状況を自分の中でどう解釈すべきかを考えてしまうものだ。そこからが自己との戦いかもしれない。
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   <title>リオのオリンピック</title>
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   <published>2009-10-05T04:15:57Z</published>
   <updated>2009-10-05T04:28:23Z</updated>
   
   <summary>コペンハーゲンから帰国して、目が覚めていたこともあり、2016年のオリンピックの...</summary>
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      <name>TERUO KUROSAKI</name>
      
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      コペンハーゲンから帰国して、目が覚めていたこともあり、2016年のオリンピックの開催都市の投票を見ながら考えた。
 
そういえば僕が出発した2日マルメからコペンハーゲンに向う道路は、シカゴでオリンピックをするべくオバマが乗り込んでくるからということで封鎖されていた。
      東京は優等生的な全てに配慮した万全の体制で望む。そして結果は、財政的にも危なく、危険もいっぱいなリオデジャネイロが勝った。

ファビラと呼ばれるゲットーの貧民街にはゴミの中に生活している人が沢山いる。去年、リオの市当局の人が日本に来て話を聞くと、その混乱の中からいろいろな面白い新しい動きができてきているようだ。ゴミの街の中のカフェやお店。ファビラシックという店はこの混乱がお洒落という持ってき方をした店、ブラジルのダンスを踊りまくっていた。

オリンピック誘致でもこの現状が南米の今の真実でもあることを隠さなかったようだ。ここで貧乏な子供達がサッカーやスポーツをやって犯罪に向うエネルギーをスポーツに向けている。スポーツの持つフェアで勇敢なチャレンジを評価するところが社会を良くするとこの伸び盛りの国がアピールしたらやっぱり説得力がある。

対して東京はこれからの世界をスポーツを核に未来都市として持ってく様に提案したようだ。僕はふと、車のレクサスのような価値観が見えて日本の戦後の文明の持って行き方は、安全で手堅く、欠点のない静かな良い車という風に持ってきてるのかと思えてならない。

しかし今、世界は車なんかそんなに必要ない、それよりもっと大切なものに向って立ち向かはなければいけない、という風な空気が満ちている。シカゴも犯罪都市で財政的にも大変でそれどころじゃないと反対グループがアピールしたようだ。オバマもきっとストリートバスケでスポーツと日々の生活が直結しているのだろう。歩き方や態度はスポーツマンだ。

それに対して日本はスポーツマンシップを持って危険に向って勇敢に立ち向かうという本質的な姿勢がアピールできていない。お金もあるし、自然を取り込んで安全で、確実なオリンピックとみんな平和で収まりがいいという戦後の日本社会の理想像の延長を持ってきたのだと思う。

そこの裏には経済効果もありお金も儲かるという下心があっただろうか。お金を儲け、安全に、平和裏な社会。そこでは強く、金メタル競争もクイズオリンピックの様に沢山とれる方が良いと言わんばかりだ。

こうした流れに対して、現実の世界の今を強く出して真実を訴えるという方が人々の心を動かす。日本が悪いのではない。日本がいま迄築き上げたものの上を目指すべきなのは、文化や美や真実を探求する姿勢なのではないかと思う。

小金持になった日本人の肥大した欲望の延長にではなく、潔く清らかな心を持って、いけないものなのかと思う。ここを作るのは精神性と美意識だろう、とぼくは思う。
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   <title>2020年の食卓をスエーデンで考える </title>
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   <published>2009-09-28T15:07:01Z</published>
   <updated>2009-09-28T15:07:28Z</updated>
   
   <summary>エアフラの夜便はパリにいくのには良い。22時頃出て4時ころパリに着く。夜に成田に...</summary>
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      <name>TERUO KUROSAKI</name>
      
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      エアフラの夜便はパリにいくのには良い。22時頃出て4時ころパリに着く。夜に成田にいくのはハワイぐらいだけど、空いているし夜寝れて朝から動けて良い。

お昼頃出て夕方着くヨーロッパ便よりも、同じ時間が得する感じならこの方が僕には良い様に感じられる。
      僕は日本を出て外国に来て、いろいろな違いを知って、やっぱり日本が良いとは言いたくないと思って今まで生きてきた。地方から東京に来ている人でやっぱり都会は怖いというのに似ている。

なにが怖いんだ。と言ってしまう。始めてヨーロッパに来た1971年、南回りのエジプト航空で途中カイロに泊まったりしてロンドンに入ったとき、飛行機から見た街路灯が赤くてクラッシクな感動を覚え、当時はやっていたロンドンのロックの曲と合っている様に感じて以来、とに角どこに行っても住んでみたいと思う。

というか、ここに住むとしたら何処でなにを食べてどんな部屋で生活するかをイメージするのが習慣に成って、それが僕の想像する力と創造力の源泉のような気がする。むしろ生命力の源泉かとも思える。

そういう感じの、何処でも楽しめる根っからの旅好きの日本人はたまにいる。そうした若者を見つけると嬉しくてしょうがない。僕もかれこれ35年以上平均すると年に10回は日本を離れているので350回以上海外に旅して、それも自分でほとんどお金を払ってきた。

安いチケットからコンコルドやファーストクラスまで何でも良いからそのときの感じで飛行機に乗っている。なぜそんなに旅好きなのかと思うことがあるが、単純に飛行機が好きなのかもしれない。

親戚に飛行場を設計してたり、飛行機を開発してた人がいたというのは後付けの理由で、戦闘機のプラモデルを部屋中にぶら下げていたりした小学生から、流体力学がかっこ良く思ったりした高校生時代や、フィリップ・スタークやマーク・ニューソンの様に曲線に流れを持っているデザインとご縁があったりしたのも不思議な運命なんだと今日思った。

今、ストックホルムにパリ経由で来てみて、途中にパリのPLACE des VOSGESの昔から僕の好きなカフェで朝ご飯食べて、スエーデンにお昼頃着いてすぐに、グラフィック美術館で食卓の展覧会があるというから早速行ってきた。

現在食卓に並んでいるもの全ての、裏話というか、ストーリーと裏づけを表にしてみたり、食物のできるまでを分析し、如何に食べ物が自然と係ってできているかが事細かに書いてあり、興味深い視点で見せていた。

以前は冬にはマイナス20度になったのに、今は雪も降らなくなっていることや温暖化から、以前とは当然違うものを食べなくてはいけなくなるのではないだろうか。

あと10年もすると水が石油の様に奪い合いになったり、ミツバチが大量に死んでしまって、果実が少なくなったり、おかしなことが起きて食卓が変わってきそうだということを予感させる。

一体どうなるのか不安だ。又急激にそれに対する危機感から食生活が変わり、自動車が売れなくなった様に、変わってくるのだろうか。

とにかくこの10年は全てに目が離せない様に思える。人類は何か危なくなってからしか知恵を出せない種族な様でもあるので、急に変わってくることもあり得る。
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   <title>e-mail,blogとtwitter</title>
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   <published>2009-09-22T14:06:39Z</published>
   <updated>2009-09-22T14:07:29Z</updated>
   
   <summary>最近、twitterなどやり始め、何人かの人のつぶやきを見ていると、メールよりも...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kuroteru.com/">
      <![CDATA[最近、<a href="http://twitter.com/kuroteru">twitter</a>などやり始め、何人かの人のつぶやきを見ていると、メールよりも考え方の推移というか、息をしている感じが解る。

人は公式見解のブログさえも何かよそよそしく思え初め、思考の推移、ものの見方と経験の瞬間を切り取ってのぞきそて其の人間に親近感や愛着やふとした感慨を感じるものなんだということが解った。]]>
      そういえば最近はとんと手紙も書かないし、雑誌も買わなくなったし、新聞は朝読むけど昔と違う情報世界に住んでるように思える。

しかし考えてみると子供のころは、本をプレゼントされそれを夜中まで読んだり、ノートを新しくしてそれを開くときの匂いや感激、鉛筆を丁寧に削って、新学期が始るんだと準備したり。

万年筆を色々集めて、書き心地の良い万年筆は羽のような書き心地なんて言って、モンブランだパーカーだペリカンだとかはたまたオノトとう幻の万年筆など集めたりして喜んでいたものだ。

ウーターマンもいい。本も装丁にこったりしてるのは持つだけでわくわくしたり、良くわからなくてもサルトルの哲学書や量子力学の本など持って何か頭がよく成った気持ちで歩いたものだった。

しかしこれらとは違った感情を隣の女の子が携帯のメールの文字で表現しているのを横目でみるにつけ、情報と意思の伝達は無限にあるんだと言うことが解る。それも電車の中やそこら中おかまいなく情報交換するのをみるにつけ、人間は繋がりたいという欲望が強いんだなと思う。

しかしこれからはそれらをうまく使いこなし、手段を微妙に判断して情報を伝えたり、得たりしてそれらの総和としての自己の世界を作るのが良いのではないかと思う様になった。

それは先日、手漉き和紙を見て筆で手紙書いたり、万年質でコンケラーの紙と封筒でちょっと文を書いたりして送ってあげたい気がした事とも関係がある。

それにきれいな自分だけの書斎のライブラリーを持つのは良い趣味だと思う一方、こうしてマックブックでブログ書くと、指先で考え、脳みそが指にあるような気がするのは僕だけかなと思ってしまう。

音楽でもそういえば歌詞や言葉の重要度は益々増し、ラップやオペラやパンクは歌詞の意味と韻と語感がリズムに乗って説得力が倍増するのが分かる。

こうした時に、一番ヤバいのは一つの伝達手段が唯一絶対でその世界だけに閉じこもってしまう人がいることだ。要するに何を伝えたいんだろうかといつも相手を思いやってあげる余裕がないことがきつい。

何を伝えたいか本人も分かってない事が多い、それでも第三者の方が裏の話や客観性から判断すると優位にある。結局、流れの中に本質を見抜こうとするんだという気がする。そうするとtwitterのたわいないつぶやきの中にその人の呼吸すら感じることができるような気がする。

それは一昔前、エッセイや小話がうまい作家が長編小説の作家よりも人々に受けたようなもの。こうした伝達メディアさえも移り変わって行くものなんだと思う。そこで本当に強く考えたり、深かったり、感動は大きくうねってくる、むしろ感動などさえもうざくなるという感情すら生まれてくる。しかし兎に角流れている。時代も人の心も社会状況も。
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   <title>和紙の里</title>
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   <published>2009-09-19T10:09:50Z</published>
   <updated>2009-09-19T10:11:00Z</updated>
   
   <summary>なぜかこの数年間は金沢／富山／福井と、北陸に来ることが多い。 この5年でもう30...</summary>
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      <name>TERUO KUROSAKI</name>
      
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      なぜかこの数年間は金沢／富山／福井と、北陸に来ることが多い。

この5年でもう30回以上来てると思う。始めはデザインコンペの審査などで、そのうちに地場産業をどうにかしようという事で、地元の企業家と話したりするのに呼ばれている。
      その内に東京しか知らない僕が、福井の竹田村の700年の古民家をどうにかしたいなんて本当に考える様になった。

昨日までは和紙の手すきの工房（工場？）に行ってきた。ここでは若者も結構働いていて、それがみんな良い顔をしいる。どんどんと減って行く紙の手漉きの技術を守るだけではなくて、さらに発展させていこうという志を持っていて、僕の方を真剣にみてくる。ここで本気にならない訳にはいかない。

和紙というのは本当に優しい手触りで、三つ又、ガンピなどをどう混ぜるか、透かしの技術などは日本人の繊細な心遣いがあってこそできるもので、今後は僕の和紙の開発も自分でもやりたい。

封筒やライティングパッドや様々な紙の最高の出来の商品を開発するのは、家具屋を再開する前にやっておくべきかな。と思わせるものがある。大量に紙を使うのはダメだけど、丁寧に紙と印刷を突き詰めるのはありだと思う。

今後出版業界のスケール規模は小さく成るけど、責任在る言葉や感動的な文章はもっと必要だし評価もされなくてはね。だから紙製品をとにかく沢山売ろうとはせずに、少しだけでも良いものを作って、それでなり立つ産業に紙産業や印刷産業を再考し再生させなければ行けない。

そう自分の中で決めると後から元気が湧いてくるものだ。

それに僕みたいな人はもっと沢山いるだろうし、より深く真剣に考えているだろう。ヨーロッパには良い文房具屋がたくさんあるし、オリジナルの封筒や紙は知識人階級のお洒落。

そんなこと喋ってたら福井に隈さんの設計した建物の料亭があって、そこで軽く一杯やったら、すっかりロンドンの酒の華っていうレストランみたいな気持ちになった。建物ごと手掛けているから、彼のちょっとした傑作の一つかなと思う。

再生にはまず、古さと新しさ／手仕事と機械仕事を対立させないで、上手く持って行く考え方の柔軟さが必要だと思った。
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