リオのオリンピック
October 5, 2009
コペンハーゲンから帰国して、目が覚めていたこともあり、2016年のオリンピックの開催都市の投票を見ながら考えた。
そういえば僕が出発した2日マルメからコペンハーゲンに向う道路は、シカゴでオリンピックをするべくオバマが乗り込んでくるからということで封鎖されていた。
東京は優等生的な全てに配慮した万全の体制で望む。そして結果は、財政的にも危なく、危険もいっぱいなリオデジャネイロが勝った。
ファビラと呼ばれるゲットーの貧民街にはゴミの中に生活している人が沢山いる。去年、リオの市当局の人が日本に来て話を聞くと、その混乱の中からいろいろな面白い新しい動きができてきているようだ。ゴミの街の中のカフェやお店。ファビラシックという店はこの混乱がお洒落という持ってき方をした店、ブラジルのダンスを踊りまくっていた。
オリンピック誘致でもこの現状が南米の今の真実でもあることを隠さなかったようだ。ここで貧乏な子供達がサッカーやスポーツをやって犯罪に向うエネルギーをスポーツに向けている。スポーツの持つフェアで勇敢なチャレンジを評価するところが社会を良くするとこの伸び盛りの国がアピールしたらやっぱり説得力がある。
対して東京はこれからの世界をスポーツを核に未来都市として持ってく様に提案したようだ。僕はふと、車のレクサスのような価値観が見えて日本の戦後の文明の持って行き方は、安全で手堅く、欠点のない静かな良い車という風に持ってきてるのかと思えてならない。
しかし今、世界は車なんかそんなに必要ない、それよりもっと大切なものに向って立ち向かはなければいけない、という風な空気が満ちている。シカゴも犯罪都市で財政的にも大変でそれどころじゃないと反対グループがアピールしたようだ。オバマもきっとストリートバスケでスポーツと日々の生活が直結しているのだろう。歩き方や態度はスポーツマンだ。
それに対して日本はスポーツマンシップを持って危険に向って勇敢に立ち向かうという本質的な姿勢がアピールできていない。お金もあるし、自然を取り込んで安全で、確実なオリンピックとみんな平和で収まりがいいという戦後の日本社会の理想像の延長を持ってきたのだと思う。
そこの裏には経済効果もありお金も儲かるという下心があっただろうか。お金を儲け、安全に、平和裏な社会。そこでは強く、金メタル競争もクイズオリンピックの様に沢山とれる方が良いと言わんばかりだ。
こうした流れに対して、現実の世界の今を強く出して真実を訴えるという方が人々の心を動かす。日本が悪いのではない。日本がいま迄築き上げたものの上を目指すべきなのは、文化や美や真実を探求する姿勢なのではないかと思う。
小金持になった日本人の肥大した欲望の延長にではなく、潔く清らかな心を持って、いけないものなのかと思う。ここを作るのは精神性と美意識だろう、とぼくは思う。