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April 16, 2012

学びのキュレイションの始め

家具やインテリアデザインに熱中してから、最近、震災などで捨てられた古い漆器の再生や古民家の再生に動き回ってきた。

陶器をチャイナと言う様に、英語では漆器をジャパンという。それほど日本の漆器は工芸としても、日本の文化を代表するものと海外では見なされてきた。

古い漆器は意識を集中し、魂をこめて作られてきたものが多い。その製作の過程は、祈りにも似た精神の集中によってしかえられないエネルギーが感じられる。古い漆器を直したりきれいにして、ならべて見ると、緊張感と力が感じられるから不思議だ。そこに蒔絵や螺鈿などがおかれていると芸術品の様に思う。

そこでデザインのあとに僕はContemporary Art & Caraftに興味が移ってきた。アートと工芸の現代がデザインの様にも思えるが、実は最近のデザインの流れは如何にアートや建築的視点も取り入れて、手仕事の技巧と意識の集中があるかが大切になってきている。生活の中の美意識としての工芸がデザインになってきた。Design as Contemporary Craft.

そこでアートの世界に飛ぶと、日本では本当の意味でのキュレイション、すなわち、社会と美術を橋渡しして、きちんと思想とテーマを持って作家の表現をキュレイションしていける人が少ないように思える。

美術館の学芸員になって美術と知識を担当するのではなく、自己の視点で美をまとめあげて行く人。それを美術展などの出来事として展開できる人。この概念のアートのキュレイターが最も求められている。事業家的な力強さを持ったキュレイター。工芸でも職人の技術に応じて、誉めたり、励ましたり、怒ったりする親方。それにモノが分かっているお店と、目利きの客。それらを意識しながら、その道の世界を引っ張って行くような工芸のキュレイターが必要になってきているのが実感される。

デザインの世界でも余りにも世俗的な商業にもてはやされたデザインプロデューサーの終焉を迎えて、キュレイターが求められてきている様に思う。ファツションデザインも、生き方のかっこよさを感じさせる服。その服を着ると中途半端なことは言えないな、というような服は最近はなくなり、現代の時代の空気をいっぱい吸い込んだモデルは出てきたけど、かっこいい生き方は感じさせない。

僕はこの8年ほどは、これはやっぱり意識を変えて行かなければホントに好いデザインはないなと思い、スクーリングパッドや自由大学をやってきた。デザインを突き詰めると、建築やアートの理解が必要になり、ファションを良く見ると服をどのように着て、どう生きるか、所作を考える事。そして自分でも最初から全てを学び直したいといつも思う。そこでその疑問と課題と社会の架け橋としての学びをキュレイションをする機能が何処にもないことが解った。

そもそも大学の起源は何処にあるのか?学ぶのは自由人しか出来なかった。しかし今はお金を得る職業に就く為に大学卒業資格を得る為に学ぶ。自由とは反対の視点で学び、試験を受ける為に学ぶ。この世界もキュレイターが必要になってきた。ついでにウェブの世界でも情報過多になり、何も整理されずに何でも知ってるという、データベイス型知識人が重宝される時代も終わりつつある。検索機能が発達しても疑問が構築されないと話にならない。

一体どうすれば好いんだ。何が大切なのか?

いつもそこを意識して生きていく。宗教でないとしたら、美しかそれに変わるものはない。少なくともいろいろな領域で美を感じることを追求して行く。それを橋渡しするのが学びのキュレイターなんだ。そこでそもそも学ぶということはどんなことなんだろうかと徒然、考える。そして骨董屋で古い漆器を見たり、古本屋で一服する。

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