Bridge over Troubled Waterr -明日に架ける橋

April 21, 2015

僕は、1970年代初頭、大学では学生運動が盛んで、東大の安田講堂では高校の友人が機動隊に捕まり、また内ゲバでは同じ様に高校の同級生が殺されたりした時代に青春時代を過ごした。多くの大学はロックアウトされ、そのバリケードの中でロックコンサート等を僕らはやったりしたものだった。

その時代、大学の在り方が問われ、また科学の発展が人間の為に果たしてなっているのかが問われたりした。1968年はパリの五月革命から世界中で色々なことが起き、アメリカではベトナム反戦運動からヒッピームーブメントが起きた。

またチェコでは民主化運動が起き、キューバではカストロやゲバラが活躍した。その頃サイモンとガーファンクルが、こうした世界中に起きている紛争を、どのように乗り越えるかと言う問題意識でこのBridge over Troubled Waterという曲を歌った。

この曲がヒットしている中で、僕は新宿で山手線が学生の争乱により止められたりしたのをテレビで見ていたりした。僕は71年に初めてアジアからエジプト、ギリシャを通ってヨーロッパに行きそれこそヒッピーの様に世界中を旅し始めた。

一体人類の進化はどのようになっているのか?社会はどのように動き、何を基軸に動いているのか?という事でまず、エジプトからローマ、それにフランスから、当時の音楽の中心地のロンドンに辿り着いた。

哲学ではサルトルやボーボワールが活躍し、弁証法が素粒子論に応用され、存在とは何か?が大きな問題であった。科学と哲学の根源的な事を語り合いながら、当時盛んに成り始めたフリージャズやロックを聴いていたものだった。

そこでは根本的に相反する事象をどう乗り越えるか?が常に意識されていた。そこにツェッペリンの虚空を裂く様な音がからみ、ピンクフロイドの音が心をとらえた。その頃、ロシアの人工衛星スプートニクから見られる事を避け、アメリカは世界中の情報のネットワークを作る事に躍起になった。

はじめは国家権力の情報システムであったが、その後ヒッピー文化の個人の自由を極限まで追求するアップルのシステムが完成し、その後それらの互換性がそれこそブリッジの様に出来上がった。そこで、情報のシステムの革命があった。

大学の物理学科ではこうした情報科学と、物性論から発展した、それこ物質の本質とは?時間とは?宇宙とは?と行った事を議論して居た。経済では資本主義とは、社会主義とは?と言う事から、価値とは?資本とは?と言った事が問題にされた。これら全ての問いかけは、追求こそすれ、答えが一つではなく、これでおしまいと言う問題ではない。

ただ、ここで問題なのは何を問題とするかの視点の自由さと多様さを持ち、それに対してあくまでも挑んで行くと言う姿勢こそが評価されるのではないかという事だと思った。

そう考えてまた世界中を旅をすると、時代の問題意識、都市の匂い、そのときの世界の気運と行ったものが感じられる事に気がついた。僕のご先祖さんは、各地の士族がお見合い結婚で結婚し、明治以降、フランスやドイツ等に留学し、堅苦しく、古くから富国強兵の為に作られた大学に行って、多くは軍人や、大学の教授を務めた。

それら全てをぼくのロック魂が否定して来た。最近ではこうした大和魂と言ったものにも理解をして、伊勢神社等にも行く様になった。そこも全て橋を渡してくれる人が居て、全く違った事の橋を架けてくれる人が居たものだ。対岸に橋を架ける、と言う行為は益々意味が出て来た。

そう考えると、全く異なった土地を橋を架ける事で繋ぎ、新しい文化ができる事が出来る。相反する事柄を結びつけて、次の時代を見ることができる。橋を架けると言う事が、今まで僕がやって来た事だと思う。デザインとクラフトの橋渡し。農業と都市生活に橋を架けるファーマーズマーケット、現在と未来に橋を架ける事。ポートランドと東京に橋渡しする、Bridge Lab、や学校から社会への架け橋を造ったり。

フリーランスな働き方と企業を繋いだり、Bridgingこそが我々が今熱中している事な様な気がして来た。現在の世界に横たわる、想像を絶する苦難や難題。これらを乗り越える橋を造る事こそやりがいがある事といえる。  

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