武士道と騎士道
June 10, 2025
僕が小学校三年生のころ、父親と祖父に呼ばれたことがあった。「テルちゃん、もし日本が西洋と戦争して、今度は勝つ為には、イギリスやアメリカやフランスの真似をしたら勝てない。ギリシャ時代から学ばなければ駄目だ。」と言われ、石井桃子の書いた、プルターク英雄伝、を渡された。
父親の父、僕の祖父は日露戦争でロシア人を7人日本刀で切り倒し明治天皇から金鵄勲章を貰い、お転婆の僕のおばあちゃんが17歳4ヶ月(ジュウナナサイシカゲツ)のときに結婚した。おばあちゃんの父親、僕の曽祖父は明治時代に東大を作り、フランスに船で行き火薬の製法と戦法を学んで日本に帰って来た。
そしておばあちゃんによると、乃木将軍(おばあちゃんによると乃木さん)に決闘を申し出たフランス派の将軍だったらしい、勿論当時日本では決闘などは認められてなかつたが当時はフランスでは毎年二万の決闘があったらしい。名誉と誉にかけて決闘がなされていたらしい。
パリコミューンのころ、普仏戦争でフランスが負けたので、フランス派の僕の先祖は日本陸軍内で、力を失っていつた。そして日本の武士道とフランス騎士道を合わせて日本陸軍を作り上げたがすぐにドイツ派の合理的で実利を中心に考える軍人が蔓延り、日本の軍隊が出来上がった。
おばあちゃんのお兄さん2人とも一高、東大出て、長男は軍需産業の社長、次男は東大の航空研究所の一期主席卒業して、三菱重工で主任研究員で一式陸上攻撃機を設計して、初めて飛行機の翼にガソリンを蓄える事を考えて、第二次対戦の初期にイギリス軍の旗艦プリンスオブウェールズを撃沈して大いに意気が上がった。
お爺さんは日本刀で切り倒したロシア人の顔が目に焼き付いていて、忘れられず早々と陸軍大佐で退任して隠居していました。おばあちゃんの妹は慶應義塾の医学部を作ったというお医者さんに嫁いで、お金持ちで、毎年立派な菊の花を家に育てていた。
みな子供達は慶應で、看護婦に産ませた子だけは早稲田を出て、建築史の教授をしていた。父親もその兄も開成を出て、長男が東北大、日立中央研究所設立、大学教授になったので、家業の軍人になるべく陸軍士官学校に行った。
父親によると、本当は芸大出てアートをやりたかったと言っていた。しかし技術将校で火薬の研究をしていたので、戦後は陶磁器の釉薬の研究していた。ただ祖父の家はフランクロイドライトの弟子の遠藤新が設計した家だった。
当時ぼくは茶室のある洋館のようなフランス風の庭があった家に不思議な魅力を感じ、その庭でおばあちゃんをおんぶして、嵐の日に走り回った記憶がある。また一方、母の父、僕の母方の祖父は陸軍士官学校、陸軍大学でた参謀本部長の服部武士中将だった。
そう考えると、黒崎家の曽祖父が日本陸軍の礎を作り、母方の祖父が最後の陸軍参謀長という、僕にとって最悪の家系に生まれ、小学校はプルターク英雄伝、ナポレオン伝、司馬遷の史記を読み、一方で高校の時は反国粋主義、アナーキーでパンクなブリティッシュロック好きだった。親父や一族に反発していた。
サルトルやボーヴォワールを好み、パリ五月革命に憧れていた。デザインやアートや建築を好み、哲学書を読み耽った。