組織を創る
大きな企業に入り安全に暮らすことに疑問を持ち始めていた。また外国で自分の好きな家具とインテリアに囲まれて、趣味と仕事に包まれて暮らす人に会うと羨ましく思った。
一方、日本で偏差値の高い大学に行き一流企業といわれるところで働いている人に羨望の気持ちは湧かなかった。おじさんたちは皆一高、東大出て偉そうにしていたけど羨ましく無く、父親も開成から陸軍士官学校出て技術将校になって、戦争に負け数年してから結婚して、僕が生まれ、自分の科学技術を生かすべく陶器の釉薬を研究する技術者の道に進んだようだ。
父の兄も開成から東北大、日立中央研究所設立メンバーから大学教授になリ、また大叔父2人も一高、東大出て三菱重工で飛行機を開発したり軍需産業の会社をしたり、また祖母の父、僕の曾祖父は東大で教えてからフランスに留学してフランスの火薬や武器や研究して、帰国してから日本陸軍のフランス派の将軍になった。こ
うした経歴が僕は嫌だった。恥ずかしくはあれ自慢ではなかった。僕の高校時代は60sでブリテイシュロック全盛で、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリンを始めパンクまで没頭していた。
歌詞で英語を学び影響を受けた。そしてアメリカではサンフランシスコのヘイトアシュベリーに行ったり、ベトナム反戦運動やヒッピー文化に影響を受けて、ボブディランやPPMの歌詞にも影響を受けた。
僕がいった早稲田の理工学部の応用物理学科には当時コンピューターの研究に向かう方向と物性論、素粒子の研究に向かう方向があった。僕は今の様なコンピュター社会が来るとは思はないで、ものの存在とは?とかサルトルの存在と無などを読んだりして考えていた。
目先のお金のことなど考えるのはダサいという考え方だった。そこで始めた骨董屋で始めてお金儲けに集中した。アンテイークの照明器具や家具をコンテナで輸入する様になって、そのリプロダクションをつくろうと思い、当時アーチィスト崩れで鉄工所をやっていた友人の鉄工所でビクトリアンの照明を作った。
また同時にアンテイークの曲木の椅子を日本の木工所で作らせたりして、IDEEというブランドで売り始めた。
その頃フランスによく行き、フィリップスタークに会ったりして彼のデザインを日本の家具屋として始めて日本で発表して展示会をした。骨董屋の頃は3人ぐらいの社員がいたがその後リプロの家具を作る頃には30人くらいになった。
もともと社長になりたいわけではなかったけど、昔から親分気質で長男なので自然に社長をやっていたけど、人は皆平等という所はあり、天は人の上に人は作らず、人の下に人は作らずと行った考えや、真理の前にはみな平等という風に考えていた。