セルジュとの出会い

December 30, 2023

IDÉEでは、カタログ雑誌 「Life with IDÉE」を発刊して毎号7万部以上販売した他に、岡崎乾二郎氏や小林康夫氏と組んでFRAMEという美術理論誌や、「SPUTNIK : whole life catalogue」という本と雑誌の間の様なものを、野村訓市くんという若者と組んで作ったりした。

僕の人生が大きく変わったことの中で、フランス人デザイナーのセルジュ・ムーユとの出会いがある。

FORMというフレンチ50’sのデザインから影響を受けたブランドを作った時、パリの骨董屋や蚤の市を訪れた。その時に、不思議なデザインの照明器具に目がいった。そのランプ扱っているアランという骨董商と知り合い話を聞いたり、色々調べてる内に、セルジュ・ムーユに会いに行くことになった。

ちょうどその時パリにいたマーク・ニューソンを連れて、お土産にサンジエルマンの花屋で綺麗に咲いていたケイトウの花をあるたけ買って、友人の車でパリから1時間ほどのシャトー=ティエリにある、セルジュのアトリエ兼住居を訪れた。

彼は僕らを歓迎してくれて、自分で作った鴨料理を振舞ってくれた。そして自分のデザイン思想を話してくれた。僕とマークはそれに聞き入ってしまった。

僕はセルジュを日本に招待して、僕らの工房を案内することを提案した。その時いた娘のステファニーも来る話になったが、彼女は結局来れなかった。セルジュは自分のオリジナルの型を見せてくれて、それを参考に作ったら良いと言ってくれた。

そして、日本では当時仏壇を作っていた兼松さんという金属加工業者に頼んで、この不思議なデザインのフレンチ50’sのランプを再生産する事になった。

過去のデザインを自分たちが発売するために、直接交渉するということは、今までのやり方とは全く違ったようだ。柳宗理氏のバタフライスツールもそうだった。柳宗理氏に会いに行った後、天童木工のデザイン開発者、天童木工の社長、大山勝太郎氏に会いに行った。

長大作氏のデザインした椅子の時も同じだった。とにかく良い物は良い、自分が見て良いと思うものを信じてやっていこうという気持ちが強かった。こうして一度廃盤になった過去のデザイン、名作が再生されることが世界中で起こるきっかけになった。

イデーの草創期 #4

December 29, 2023

1983-1984年頃は僕にとってはファションと建築とアートに目覚めた時期であった。コム・デ・ギャルソンの名刺を持ってニューヨークやシカゴやロスに行ったし、パリではショーの手伝いもした。

また、IDÉEではフィリップ・スタルクの家具を発表したり、新しいデザイナーとのコラボレーションを始めた。

ロンドンで友達になった1人に、建築家、デビッド・チッパーフィールドがいた。当時は若くて少人数で活動していた。そんな彼は、彼は今年プリツカー賞という建築界のノーベル賞のような賞をとったし、現在ではアシスタントが300人以上かかえる建築家になった。彼に後藤美術館の建築の仕事を紹介したりもした。

フィリップ・スタルクも僕が知り合った頃は一人でやっていた。カフェコストという古さと新しさが共存した空間を作っていた。フィリップ・テリアンというハンサムなフランス人の代理人と、彼のデザインで、日本での製作の家具を企画した。

IDÉEというアール・デコを基にしたブランドに続き、FORMというフレンチ50'sデザインを再生するブランドを打ち立てたのは、特筆すべき事だった。骨董品であった50'sや60'sのデザインの家具や照明器具や、デザイン雑誌のコレクションなどを買い集めていた。

日本の方では、柳宗理のバタフライスツールを再生すべく、天童木工の菅澤さんに会いに行った。今でこそバタフライスツールは再生産しているが、当時は生産をストップしていた。僕らが買うからまた生産を再開しないかと、当時の天童木工の社長に頼み込んだ。僕は家具業界では素人だったので、良いものならまた作ればいいという感覚だった。

イデーの草創期 #3

December 21, 2023

古い万年筆やオイルライターを修理したり、エジソンの蝋管蓄音機を売って儲けたお金で、ヨーロッパを買い付けで回った。イギリスからスコットランドまでも足を伸ばしたし、フランス/パリには頻繁に行った。

自分の好きなものや、綺麗だと思う骨董品を青山の骨董通り(この名前は、当時からくさという古い伊万里の陶器を扱っていた中島誠之助さんと西洋骨董を扱っていた僕が名付けた)の店で売った。かつては渋谷から六本木までの都電が通っていて都電通りと呼ばれ、今の国連大学の場所には都電の操車場があった。

当時は、Pan Americanの世界一周便が$999であり、香港出発でヨーロッパを周りニューヨークからサンフランシスコを回って帰国するというルートで、これを何度も利用した。世界一周する内に、世界中に友達を持つようになり、世界は一つという感覚が生まれた。

そして、インテリアや家具に興味が移り、建築にも興味を持つ様になった。祖父の家はフランクロイドライトの弟子の遠藤新が設計していた。祖母は自由学園の羽仁さんの事もよく知っていた。ただ、祖父の家が本に取り上げられていた事などは、僕にとってはうざいことであった。それぐらい祖母の言うことや両親に反発して独自の人生にこだわった。

その頃の骨董通りはまだ何もなく、コムデギャルソンの川久保さんが小さな店を出して、当時の副社長の片山くんはよく店を冷やかしにきた。ある時、僕の店にPaul Smithが顔を出して、骨董家具に塗るBriwaxというワックスをくれないか?と聞いてきたので、それを塗りに彼の店に出かけていった。それ以来ロンドンで会ったりしている。

1980年頃は、片山くんから今度コムデギャルソンがパリで展示会をするので手伝ってくれないか?と話があり、川久保さんにお会いして、パリのショウや展示会を手伝った。

それまでは会社との仕事には縁がなく、初めてファッションにも触れた。この時にコムデギャルソンのお手伝いできたのは良かったし、川久保さんの風変わりな人柄も気にいった。近くで色々仕事をする内に、その美意識、思想、デザイン、ファションは僕に影響を与えた。

その時、僕は家具で勝負しようと決心した。

骨董品の買い付けで行ったロンドンのキングスロードで、風邪をひき、薬屋に入ったら、そこの主人から、息子が日本住んでいるのでプレゼントを持っていってくれないか?と言われた。翌日に行くと小さな包みを渡され、それを吉祥寺に住んでいる息子さんに届けた。彼の名前はエイドリアン・ジョフィ、後にコムデギャルソンに入り、川久保さんのパートナーとなった。こうした偶然がたくさんある。こうした偶然がたくさんある。

家具の方は、アンティークのベントウッドチェアを沢山売った。その流れで日本でベントウッドチェアを作っていた秋田木工を訪問して社長とお話し、よりシンプルに作ってもらい、自社製品の販売を開始した。

イデーの草創期 #2

December 19, 2023

僕はずっと精神年齢が高校3年生のままであり、いつも心にはStonesの曲とDylanの歌詞があると言ったら、ちょっとカッコつけている様だが、ほぼその通りだった。

その頃、僕は新宿のジャズ喫茶のDUGや木馬によく行った。ジャズ喫茶は、私語を禁じられている空間で、ジャズだけを良いオーデイオシステムで静かに聴き、丁寧に一杯づつドリップでいれられたコーヒーを飲むという場所だった。そこでは学生運動で活動していた活動家も、ヘルメットを紙袋に入れて隠して、静かな調和を保っていた。僕はトックリセーターにベルボトムのジーンズに長髪という格好で静かにジャズなどを聴いていた。

当時の新宿は騒乱状態で、フォークゲリラが行われたり、ロック革命を言う若者が多く、学生運動も真っ盛りだった。当時の早稲田大学理工学部の学部長は建築家の吉阪教授だったので、大衆団交の際に、彼に対して国家権力と対峙してこそ大学の学問と真理を追求することができるのではないかと主張したことを覚えている。しかしその学生運動の構成セクトは年功序列、学閥重視の大人の社会をコピーしている様に思えたし、格好良くない人たちの様に思えた。

そこで、弟がロンドンに留学していたので、イギリス製の物を送らせてそれを日本で売る仕事を始めた。当時は西洋のアンティークがブームで、僕らはまずダンヒルのオイルライターと万年筆に特化して扱った。万年筆は夏目漱石も使っていた、抜群の書き心地のOnotoや、Waterman、Pelicanなどの古くても程度の良いものを集めて売った。また古い蓄音機を探して日本のジャズ喫茶に飾っている人に売ったり、効率の良い商売に目覚めていった。

弟がコレクター気質でオタクだったので、古いオイルライターでタバコを吸いながら音楽を聴き、古い万年筆でものを書くという、今の社会ではないライフスタイルに憧れ、それを元に事業を始めたという訳だ。当時の僕にはイギリスの骨董市やパリの蚤の市を廻って自分の好きなものを買って日本で売る事は魅力的だった。

イデーの草創期 #1

December 18, 2023

僕は学生時代から、どっかに就職してサラリーマンとしての生活をおくるなどと考えたことはなかったので、自分で稼いで自分で仕事を初めて事業化するということしか頭になかった。

多感な高校生だった1968年頃には世界中がざわついていて、ちょうど今の様だった。僕は、大学生になる意味、学問をする意義、そもそも大学とは何をするために行くのか?学問とは?大学の存在意義とは?などを考えざるを得ない時代の空気を感じていた。

父親も叔父も開成高校を卒業して、叔父は東北大を卒業して日立の中央研究所を立ち上げメンバーだったり、父は次男だったので家業の軍人になって将軍になるべく陸軍士官学校に行った。また、大叔父は二人とも一高、東大から三菱重工で  
航空機の開発や運需産業をやっていた。母の父、僕の祖父は陸軍参謀本部で陸軍中将の服部武士だった。

父の母のそのまた父、僕の曽祖父は明治時代にフランスに留学してフランスの火薬を日本にもたらし日本陸軍のフランス派で少将だったり、父方の祖父、黒崎貞彦は日露戦争での武勲から明治天皇から金鵄勲章を貰ったりと、皆、侍の血、武士の血を受け継いでいたらしい。おばあちゃんはそれをいつも言っていた。

一方の僕はブリテイシュロックかぶれで、Paint it black世代というか、ストーンズ、ビートルズ、ツェッペリンなどの世代で、BobDylanの歌詞から英語を学ぶような学生だったので、全てに反発した。また、サルトルやボーヴォワールやヒッピー思想に影響されていた。

しかし思い出してみると、もっと小さい時、小学校3年の頃は、ギリシャ思想や、アテネの民主制の元になった思想や、プルタルコスの対比列伝(プルターク英雄伝)の、テミストクレスやペリクレスに胸を踊らせ、ナポレオン伝などを与えられて来た。

今から考えると特殊な教育をされて来たと思う。これは日本の武士の志は血の中にあるので、西洋の思想を取り入れたらいいという父の考えが反映していたと思われる。そんな中、日本人は真面目でいい人が多いし、和して同ぜず、和むけれど同化しないということを教えられたことは良かったと思う。

しかし、高校時代はラジカルなロックが好きだったので、反戦思想とカウンターカルチャーの中で育った。その頃、隣の席にいた子が横浜国大の革マル派のリーダーになり、内ゲバで鉄パイプで頭を割られて亡くなったり、テレビで東大安田講堂事件を見ていたら、慶応に行ってた子が捕まって出て来たりなどが普通にあった。

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