Let’s Make Japan Great Again

January 30, 2024

今年の元旦に起きた地震で輪島の漆器工房は壊滅的な打撃を受けた。また世界では、アメリカは「Make America Great Again」を唱えるトランプが大統領になるかもしれないし、ロシアはプーチンがロシアを再興してアメリカやいわゆる自由主義陣営に対抗し、中国は習近平が中華思想で中国を世界の中心に持っていこうとしているかの様だ。

一方、日本は戦後のアメリカの日本弱体化政策という様に、日本精神といったものを抑え、また日本人もそんなに武力や経済力やGDPで競い合ってもしょうがないという風で、社会も老人化が進み、そんなにやる気を感じられない。

それぞれをCultureに置き換えて、「Make American Culture Great Again」「Make Russian Culture Great Again」「Make Chinese Culture Great Again」と文化で競い合う社会に転化するならば少しはいいのではないかと思う。

「Let’s Make Japanese Culture Great Again」を考えていたら、陶器「ceramic」を「china」と言うし、漆器「lacquerware」を「japan」と言うことに気がついた。日本文化の良いところと弱いところを考え直して、「Make Japan Great Again」日本の漆を再興したいと思うに至った。

そういえば2011年の東北の津波で被災した雄勝の硯産業再生活動後、僕らは金継ぎを広めるためにパリやオックスフォードやロンドン、ストックホルム、ポートランドで展示会をしたり漆と金継ぎのイベントをした。

その時一緒に行ったのが、福井の越前漆器会社を引き継いだ山久漆工の山本さんだった。彼は京都の漆職人を連れてきた。みんなで世界を回って、金継ぎで日本文化は壊れたものを再生し価値を生み出せる事を示した。

そして石川県の小松市滝ケ原町に北陸古民家再生機構という社団法人を設立した。また同時にTakigahara Farmという農業生産法人やCraft and Stayという会社も設立した。

そこで今回の能登半島の大地震が起きた。そして輪島の漆産業が大打撃を受けてしまった。僕はずっと文化で社会を再興する事をやってきた。日本の伝統工芸やクラフトは職人の高齢化が進んでいるが、ここで新しく生まれ変わり、特に漆器や陶器は昔ながらのやり方からの脱皮を模索している時期だと思う。

一方、美大を出てアートやデザインやクラフトや建築をやっている若者は、職人に弟子入りして地味な手仕事をする人はごくわずかだ。しかし最近は僕らのやっている青山のファーマーズマーケット周りにはこうした若者が集まっている。特に女子の優秀な人が多い。そういえばドイツの若い女の子が滝ケ原で漆をやりたいと職業訓練校に入学し始めた。こうした動きを集めて輪島の漆器工房を事業承継することを考えたい。

そういえばスウェーデンのデザイナーのインゲヤード・ローマンが僕らのためにガラス器をデザインしてくれたが、それを山本さんが漆器でも作ってくれた。ガラス器は木村ガラスが作って、漆器は山本さん。漆器の上品な存在感とモダンなデザインが伴って素晴らしい物ができたと思う。まだプロトタイプだけれどこうしたものも作っていきたい。

イデーの草創期 #5

January 23, 2024

IDÉEではまず初めに、モダンデザインの原点である1930年代のアール・デコの家具を集める事から始めた。

次に、1950年代のフランスのに影響を受けたFORMというブランドを作った。現代美術の始まった1950年代は、デザイナーや建築家の名前がはっきりしてきた時代でもあった。イサム・ノグチ、セルジュ・ムーユ、柳宗理、長大作など、デザイナーやアーテイストの才能や個性や思想が形に現れる様になってきた。

その後、PAYSAN (農民)という名前で、ベーシックでスタンダードな家具のシリーズを始めた。昔の家具のカタログや雑誌を収集していく内に、スタンダードであるが、誰がデザインしたのか分からないデザインの家具を追求したい気持ちになった。

その一方で、フィリップ・スタルク、マーク・ニューソン、倉俣史郎など同時代のデザイナーは、自分の存在をかけて美意識と価値観をスタイルやデザインに込めて表現してきた。ファッションとはまた違い、生き方や生活に直接関係している様で、僕らは1980〜90年代は熱中した。

僕は家具のデザインこそ、そのデザイナーの才能の発露だと思う。アンドレ・プットマンが手がけたニューヨークのホテルの内装や家具、フィリップ・スタルクによるデザインホテルなどが、そういった世界観を表現してきた。

IDÉEのデザイン

January 10, 2024

セルジュ・ムーユが来日した後、フランスからは、マリー・クリスティーヌ・ドルナーが日本に来てデザイン活動を始めた。また、フィリップ・スタルクとはパリで会い、一緒に日本のマーケットに向けた新しい家具を開発した。

この頃、たくさんのデザイナーと会った。

ジェイムス・アービンとは倉俣史郎氏の事務所で会った。その頃、彼は日本で企業デザイナーとして働き始めていた。ジェイムスのロンドン時代からの親友、ジャスパー・モリソンも倉俣氏の所で会った。

RCA(Royal College of Art)を卒業したばかりのジャスパーはたった一人で小さな事務所を開設したばかりだった。最近ジャスパーに会った時、フランスのワイナリーで作ったワインに、ジェイムスの名前をつけたと言っていた。古くからの親友の名前からとったワイン、良い話だと思う。

次第に世界中のデザイナーに、IDÉEのために新しくデザインすることが知られる様になった。

マシュー・ヒルトンも来日して、ソファーをデザインしてくれた。アメリカからはロス・メネズやニック・ダインがやってきた。カリム・ラシッドも来てくれた。

その頃、日本にいたマーク・ニューソンは、Appleで働き始めたジョナサン・アイブとIDÉEで会った。

80年代後半には、IDÉEは世界のデザインの中心地の一つとなっていった。その頃、家具をデザインすることは格好良く、アートやインテリアデザイン、建築やランドスケープ、クラフト、ファションや音楽などと一体となって、時代は80年代から90年代に突入していった。ファションの分野ではナイジェル・カーティスやポール・スミス達が、IDÉEの展示会に来てくれた。

最近は「どこの会社や組織で何をしているか?」などが、人の基準になってきているが、もっと大きな目線というか、いい加減というか「クリエイティブであるか?、進んでいて面白いやつか? 良い奴か?」などが人の基準になっていたと思う。

これは以前カタログに書いたが、マーク・ニューソンが僕に作品集を見せに来た時、彼の歯ブラシのコレクションの話になった。そして、僕の好きなミラノのお店の豚毛の歯ブラシを持っていたことから、すっかり信用したのだが、例えば一緒にご飯に行く時に何を食べるかなど、お互いの判断が、デザインよりも違った視点で、信用に関わったりするものだ。

ロンドンではロン・アラッドのOne Offという家具をアートにしたギャラリーが好きだった。当時、トム・ディクソンの元で働いていた、マイケル・ヤングもそういったデザイナーの一人だった。

デザイナーの世界でも、Apple Watchをデザインしたジョナサン・アイブやマーク・ニューソンなどは、昔ながらの人間臭さを残していて、お金だけでは無い所や、親友を大切にしている所や、格好良く生きる事を第一に考えている所などが、僕が気に入っている所だった。

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