未来社会の価値基準について思う

March 19, 2009

目が覚めた時や歩いている時、また色々な人と話している時などに、よく価値の基準の原点はどこにあるかということを考えている。

とかく人は一件落着するとそれが答えかと思い、そこで終わってしまう傾向にあるが、例えば遊び人や道楽者を突き詰めると、寄り道してはもう一度戻り、思い出しては考え直すような生き方になる。世の中には僕の様にそれが好きな人がいるものだ。

人はつい大きい小さいだと大きい会社が良いと思い、多い少ないだと多い方が安全だと考える漠然さがある。これを真理のように思い込んで、美しい汚いや良いか悪いかも考えずに、進歩と拡大や成長と充実の違いさえも忘れてしまう。

重要な事や大切な事とは何なのだろう。そう考えて、強い社会/弱い国家/新しい社会/古い価値、こうした要素の一つ一つをばらしてそれから再構成する。その時に何を基準/論拠に組み立てるかが、僕にとっては先ず大切だと思えて仕方がない。

それには前提条件、そもそもの認識、普通/常識を考えない訳にはいかない。そこから何がきれいで何が汚いか、美味しいか/面白いか/楽しいかを考えていく。こうして毎日散歩をしていると不思議とひらめきが浮かぶものだ。

昨夜深夜にTVでロシアのプーチンの顔を見て思ったのは、強いロシアという概念は、新聞などに載っている彼の言葉からだけではなく、彼のその精力的な表情なくしては掴めないという事。そして社会主義の良かった箇所とその崩壊から学ぶ事と、今オバマがやっている新しい資本主義や民主主義のあり様を考える事。

今まで原点や前提をろくに考えずにやってきた事全てをもっときれいに考え、あらゆる方法で再構成する事。その時、デザインや創造的仕事の仕方が本当に意味を持ってくる。僕はこういう生き方をしてきて本当に良かったと自分では思える。

これから来る人との会話のテーマは、I will do it.と言った後に、もしできなかった場合どう責任を取るかという、結構シビアな内容だ。僕は若い人に試合の前絶対勝つぞと言って試合に臨め負けても責任はボクが取るからと言って生きてきた。


『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2009年4月号、OPINION「未来の価値基準をつくる」に掲載

理性の危機、知性のピンチ、叡智の不在。 ▶

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