豊かなはずがそうでない今、の考察

October 21, 2009

最近のスクーリングパッドのクルーを見ていると、今迄は就職で人気企業であった大企業に働きながらなぜか悩み、今後は自分で何か始めたいという人が多いようだ。

大手のメーカーや保険会社や銀行などの一昔前の人気企業が急にこのところ景気が悪くなって、このまま成長することに期待ができない直感を持っている。

考えてみれば人類の文明の急激な拡大で、自動車はどんどん買い替え、家は大きくなって豪華なことが豊かであり、食べ物は益々海外の食材を大量に使い、消費文明を謳歌すべく全ての会社は拡大し続けることを宿命としてきた。

しかし文化的に、賢明に人類がなってきた訳ではなく、愚かで、軽薄なことすらも消費する為には推奨されてさえいるようだ。

それに輪をかけ、マスコミや情報産業はどうにか引っ張って、消費拡大に持って行くことに躍起であるようだ。そもそも、そういった姿勢が問われているのではないのだろうか。

銀行からのお金で土地を買ってしまった以上、ここに家かマンションを建てなければやって行けない不動産会社や建設会社、働く人の生活を支えるにはもっと売り上げを増やさなければいけないかのような脅迫観念に苛まれ、社長も社員も追い込まれ、社会の誰のせいにもできず、ストレスと欲求不満が溜る。

そこには真面目に勤勉にやって行きさえすればそれで上手くいくという漠然とした信念を教え込まれそして信じてきた。そこで不真面目になることもできず、悪いふりぐらいはするがまるで弱虫、どうして良いかと病んでいる。

しかしこうなる前の貧しい時代は、兎に角モノが溢れることが豊かなことでモノが沢山在る状態が幸せで安全だった。一体、豊かな生活は、何処にあり幸せな心情とはどんなものなのだろうか。

デザインしてモノを作ることを職業としている人は、いきなり上司から10万個売れるものを兎に角作れと言われる。こうなると豊かさを追求するというより追い込まれてしまっている。

貧しい心情で日々生活している。自由に美しく、いいものを作ろうなどとはかけ離れて、大量販売をしないとやって行けないので少しでも安いものに走り、全ての知恵がそこに向けられる。

こうした八方ふさがりな状態を若者は感じ取って、しがみつくよりも自由に生きようと思う人がいる。僕はここのところを助けたい。しかしスクーリングパッドで自由の空気をいっぱい吹き込み、そして勝手に行けとばかりに放すと、今度は急にしぼんでしまう。

丁寧に少しずつ負荷を与えて行かないと中々自由には飛び立てない。僕がいつも言うのは、死にそうになる大病や、大失恋や、倒産したり、経済的に破綻したり、もうあり得ない状態は現在平和な社会であるが故に滅多に経験できない。食べ物がなくて飢え死にしそうな人がいる訳でもないのに、とても貧しい。

こういうときは自分なりに目的を持つ才能があると大いに助かるものそれを探そうと言っている。まわりのヒトに良くするよりも自分だけは良く成りたいと思うし、弱肉強食で強くなくては生き残れないかのようだ。

だけど、こういうときこそもっと大きい意味でみんなが良くなる道を考えるのがいい。それを自分の身近な所に落とし込んでやってみる。これにも勇気がいる。こんなことをやってみたいと思う。それには又始めから考えてみないと。

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