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August 28, 2010

自由の代償1

最近、若い人と会っていると、ちょっと前とは違って、どうしたら良いでしょうかね?何が正解なんですかね?社会はどうなるのでしょうかね?といったことを通りぬけて、こうした上昇をもとめるということすらからも離れているように思われる。

これを意欲がないとか、生命力が弱くなっているとか、はたまた真面目ではないとか、草食人間だと、大人は言う。

何も考えずに、ハキハキといつも素直に好く言うことを聞く、やる気のある人間を作ることが戦後の教育の目的であったように思われる。その為に塾に行き、受験勉強に勝ち抜き、やってきた。そう成ると、其の努力の代償に、有名大学に入学できて、大きな会社で働くことができる。

すると一生、少なくとも経済的不安に置かれなくなって、安全に平和な生活が獲得出来る。という夢と幻想。これは戦争で全てを失い、モノが溢れるほどあること、お金持ちに成りさえすればアメリカに追いつき、世界に其の存在を示すことができるかのように思った戦後の日本人の努力を否定するわけではないが、現在そこが疑われている。

大企業では社内でのコンセンサスを得て一枚板に成ってまっすぐ働く。もしこれをよしとするとしても、次はどうでるかが根本的に求められている。でも、貧乏だから、頑張って稼いでお金持ちに成った、それで何か悪いことでもあるのか?

もっとやる気をだして稼ぎまくったらどうなんだ。という声に対してまともに対抗することができなかったと言えるかもしれない。何事も好いか悪いか、2方向で考えるキリスト教的思考方法ではなく、曖昧といはれるかもしれないが、デザインや文化や人生の生き方の視点から考える。

すると経済的に数字で考える事から解放されて、急に開けてくることがある様だ。そこで大切になってくるのが自己、自己がないと、自由が何かの基準すらない。自由というのを自分の居場所なくして言うことはできない。

ネット社会で自分を隠して人の揚げ足を取ったり、暴露したりするのはこの辺がないからだ。自由とは自らが由るべき由りどころ。

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