情報のフローと情報のストックとしての本

November 27, 2008

原宿の僕の事務所の下で選挙のスピーチをしている。不況で正規雇用者以外は過酷な労働条件で皆貧乏になっていることを言っている。

アメリカやフランスも自動車産業の労働者が職を失いそうな危機だ。急激に車社会に嫌気がさしてきたのは、オイル価格が上がり中東石油成金がさらに儲けオイルメジャーが儲け、中東戦争も結局この利権のためであることがわかってきた。こうした流れが本当に人類のためでもなく、嘘が当たり前で情報が信じられず、食べ物も生活も何か実体のない空虚なものに思われてくる。

ウェブを中心に夥しい量の情報が流れている。そこで信じられるものは印刷された本のようにアナログに真実が在る訳ではないとも思われる。もしも情報が流れる水のようなものであるのなら、それが固定されたものは印刷された本なのか雑誌なのだろうか。氷のように一瞬固形物になり、固い存在感が在るだけなのではないか。

事実とその情報による認識は全て見る側のこちら側の自己との関係で決まる。だからそこを司る頭脳がこれほど注目され実体とかクオリアとか存在と存在性の問題が議論されているのだと思う。

労働は工場労働者のように企業に使われることを前提でしか考えられないと、当然敵は企業になってくる。しかし今のように企業そのものの存続が厳しくなると人々の労働、雇用創出をする企業そのものが健康でなければならずそのためには企業利益を守るために人件費比率を押さえなければ行けないということに成る。

ボクが情報と労働を平行してこうして考えているのは、どうもそれらにはつながりが在るのではないかと思うからだ。ウェブの流れるような情報と本や新聞や印刷物全体のストックとしての知を同時に同じものとして考えて行こうと僕は思う。

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