e-mail,blogとtwitter

September 22, 2009

最近、twitterなどやり始め、何人かの人のつぶやきを見ていると、メールよりも考え方の推移というか、息をしている感じが解る。

人は公式見解のブログさえも何かよそよそしく思え初め、思考の推移、ものの見方と経験の瞬間を切り取ってのぞきそて其の人間に親近感や愛着やふとした感慨を感じるものなんだということが解った。

そういえば最近はとんと手紙も書かないし、雑誌も買わなくなったし、新聞は朝読むけど昔と違う情報世界に住んでるように思える。

しかし考えてみると子供のころは、本をプレゼントされそれを夜中まで読んだり、ノートを新しくしてそれを開くときの匂いや感激、鉛筆を丁寧に削って、新学期が始るんだと準備したり。

万年筆を色々集めて、書き心地の良い万年筆は羽のような書き心地なんて言って、モンブランだパーカーだペリカンだとかはたまたオノトとう幻の万年筆など集めたりして喜んでいたものだ。

ウーターマンもいい。本も装丁にこったりしてるのは持つだけでわくわくしたり、良くわからなくてもサルトルの哲学書や量子力学の本など持って何か頭がよく成った気持ちで歩いたものだった。

しかしこれらとは違った感情を隣の女の子が携帯のメールの文字で表現しているのを横目でみるにつけ、情報と意思の伝達は無限にあるんだと言うことが解る。それも電車の中やそこら中おかまいなく情報交換するのをみるにつけ、人間は繋がりたいという欲望が強いんだなと思う。

しかしこれからはそれらをうまく使いこなし、手段を微妙に判断して情報を伝えたり、得たりしてそれらの総和としての自己の世界を作るのが良いのではないかと思う様になった。

それは先日、手漉き和紙を見て筆で手紙書いたり、万年質でコンケラーの紙と封筒でちょっと文を書いたりして送ってあげたい気がした事とも関係がある。

それにきれいな自分だけの書斎のライブラリーを持つのは良い趣味だと思う一方、こうしてマックブックでブログ書くと、指先で考え、脳みそが指にあるような気がするのは僕だけかなと思ってしまう。

音楽でもそういえば歌詞や言葉の重要度は益々増し、ラップやオペラやパンクは歌詞の意味と韻と語感がリズムに乗って説得力が倍増するのが分かる。

こうした時に、一番ヤバいのは一つの伝達手段が唯一絶対でその世界だけに閉じこもってしまう人がいることだ。要するに何を伝えたいんだろうかといつも相手を思いやってあげる余裕がないことがきつい。

何を伝えたいか本人も分かってない事が多い、それでも第三者の方が裏の話や客観性から判断すると優位にある。結局、流れの中に本質を見抜こうとするんだという気がする。そうするとtwitterのたわいないつぶやきの中にその人の呼吸すら感じることができるような気がする。

それは一昔前、エッセイや小話がうまい作家が長編小説の作家よりも人々に受けたようなもの。こうした伝達メディアさえも移り変わって行くものなんだと思う。そこで本当に強く考えたり、深かったり、感動は大きくうねってくる、むしろ感動などさえもうざくなるという感情すら生まれてくる。しかし兎に角流れている。時代も人の心も社会状況も。

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